パニック障害の抗不安薬を医師との対話と水溶液減薬で断薬

NAOさん  診断名:パニック障害 うつ病 など

ケアマネジャー・居宅介護支援事業所勤務 1971年生まれ   

初診:2012年(41歳)精神科クリニック

断薬完了:2017年(服薬期間5年 2012年〜2017年)

減薬にかかった時間:3年間

服薬していた薬:リボトリール(抗てんかん薬)0.75mg 、デパス(抗不安薬)0.5mg、 ジェイゾロフト(抗うつ薬)50mg、ソラナックス(抗不安薬)0.8mg ドクマチール細粒(抗精神病薬) トフラニール(抗うつ薬)10mg サイレース(睡眠薬)1mg、 ベンザリン(睡眠薬)5mg[舞由子1] 

医師の協力: 精神科医の指導と、自分でウォータータイトレーション

減薬決断の理由:体調が最悪になり体調悪化は薬のせいだと気づいた

NAOさんはオンライン「減薬ダイアローグカフェ」時々参加する断薬経験者です。会議に参加する以前から、多剤処方だったベンゾジアゼピン系の薬を少しずつ減らしており、「あと少しで最後の1剤のリボトリールが止められそう」と話していましたが、その数ヶ月後、2017年後半にはついに断薬に成功したと晴れやかに語りました。「実は減薬過程ではこれまでの体験を自分で書いてみようかと考えていたんですけど、だんだん過去にこだわるより、これからの自分のことを大切にしたいなって思うようになったんです」と語り、次第にオンライン会議からは遠のいていきました。現在、断薬して約1年3ヶ月になりますが、薬の体験について聞きたいという私のインタビューの申し込みを快諾してくれました。  

 NAOさんは165センチ程度と男性にしては小柄ですが、鍛えたバランスのよい体型で、白いシャツの似合う清潔感のある男性。最近転職し、居宅介護支援事業所のケアマネジャーとして忙しい毎日を過ごしています。余暇にはヨガをしたりジムに通ったりと、健康的な生活を送っているといいます。

体が弱く自分をうまく主張できなかった幼少期

 私の家庭は両親が5歳の時に離婚し、それ以降、母、姉、私という3人家族の家庭で育ちました。母子家庭ではありましたが祖母の援助もあり、母親も雑貨店を経営していたため経済的には不自由のない暮らしぶりでした。

  でも「お父さんがいないこと」については他の家と違うといつも寂しさを感じていた気がします。

  私は1500gしかない未熟児として生まれたため、幼少期は体も弱かったんですね。1歳年上の活動的で活発な姉がいます。 

 私は母から愛情をたっぷり受けていたとは思うんですが、何かしらいつも不安というか、満たされていない自分というのがいたような気がしています。

 商売上手で社交的な母親とスポーツも勉強も得意で活動的な姉は、末っ子で体の弱い私のことが心配だったのだと思いますが、私のすることをどんどん先回りして決めてしまう傾向がありました。

 私は家族の前ではいつも何も意見を言えないんです。本当はいろんな気持ちがあるのにまるで何も意見がないように扱われてしまう自分がちょっと苦しいような、そんな幼少時代を送っていましたね。 

 小中学校ではおとなしく目立たない子どもでしたが、思春期になると個性的な自分を人に認めてもらいたいという願望もだんだんに芽生えていきました。

 高校時代は友人とバンドを組み、ボーカルを担当しボイストレーニングに通ったりもしました。

母親の助言で仕事を決断してもどこか夢中になれなかった自分

 高校卒業後、私は母の勧めで情報処理を学ぶ専門学校に入学しました。自分では旅行会社やホテルマンなど接客関係の仕事が向いているのではと漠然と感じていたのですが、進路決定はいつものように母の強い薦めに従ったんです。

 専門学校を卒業後、スーパーマーケットに勤めたのち、文房具関係の会社などに勤務しましたが、与えられた仕事をこなす感じで、仕事自体にそれほど夢中になることはなかったですね。

 転職の時も就職先はみな商売上手で人脈のある母親の助言で決まり、なんとなくそこで働く感じだったのです。29歳の時に結婚を約束していた女性との失恋があり、ショックから会社をやめてしまいました。 

 一応、「脱サラする」ということで退職したのです。そんな時舞い込んだのが、牛乳配達屋という自営業の話で、これもまた母親経由のものでしたが、私は開業を決断し、ほどなく牛乳店を開店したのです。

 牛乳配達の仕事は駐車場や倉庫など条件が揃い、順調でした。しかし難点は早朝のアルバイト運転手の確保が難しいことでした。

交通事故という思いがけない事件で母親を失い茫然自失の日々

 このため母親や姉にも配達車の運転を手伝ってもらわざるを得ない状況だったのです。商売が順調に拡大して行く中で、悲劇は 私が30歳の時に起きました。

 その朝、運転を引き受けてくれていた母が車で牛乳配達中に交通事故にあい、亡くなってしまったのです。 

 私は当時、50代だった母に慣れないマニュアル車での運転を頼んでいた自分を悔やみ、心が押しつぶされそうになりました。

 衝撃から立ち直ることのできない私は、事業が順調で借金もなかったのを幸いと早々に商売をたたみ、知り合いの多い地域から逃げ出すように、地元を離れ、都心で一人暮らしを始めました。

 母親の葬儀とお通夜に500人もの人が弔問にきてくれたことで  私は母親の偉大さを改めて知ることになりました。これまで自分を支えてくれた母を喪失した悲しみと、自分の人生のさまざまな決定に関わって来た母の不在に呆然と立ちすくむ感じでした。

 都会のマンションで一人暮らしを始め、悲しみが少し癒えたころ、私は以前から漠然と感じていた「人と関わる仕事がしたい」自分に気づきました。考えた末、 私は高齢者福祉に携わることを決め、介護の仕事を始め、福祉資格を取得するための勉強も始めたのです。母親の死から完全に立ち直るまでには約3年間という時間が必要でした。

希望の仕事に就こうと思った矢先に体調不良に襲われて

 30代後半になり、社会福祉士の資格も取得でき、いよいよ自分の希望する仕事を始められる環境が整いました。しかしその矢先に、私は原因不明の体調不良におそわれたのです。 

 当時の私は社会福祉士の実習、ケアマネジャーの資格取得の勉強、そして、NPO法人の代表の秘書兼運転手の仕事をこなすという多忙ぶりでした。その疲労のせいもあったのでしょう血圧が急に上がったり、心臓がばくばくしたり、めまいなどがしばしば起き、時々胃もキリキリと痛むようになったのです。車を運転している時にも、息苦しさを感じて窓を開けないと落ち着いていられませんでした。

 不調を訴え内科に行くと、点滴をしてくれるので症状は落ち着くのですが、自宅に戻るとまた微熱が出て下がらないのです。常にだるさがあり、鎮痛剤と抗生剤を飲んでも効かない。スーパーで買い物中に過呼吸になり救急車を呼んだこともあります。

 結局、メニエル病の疑いがあるということで、1週間病院に入院することになりました。入院中ベッドに横たわり自分の状態をあれこれ携帯で調べるうちに、検索に「パニック障害」という言葉が引っかかりました。チェックリストを試してみると自分に当てはまる項目が多く、「自分はこの病気だ!」と思い至りました。

 私はその少し前に精神保健福祉士の実習で精神科病院を訪れた経験もあったため、抵抗もなく比較的気楽な感じで精神科クリニックを受診したのです。研修に行ったことが、意識の中での精神科の敷居を下げたのだと思います。

最初は少量だった薬がどんどん多剤大量処方になり体調が悪化

 私が初めて行った町の精神科クリニックでは、やはりパニック障害と診断されました。最初に処方された薬はジェイゾロフト(抗うつ薬・SSRI)でした。「過呼吸が出ればソラナックス(抗不安薬)も頓服で飲んでください」と医師は言いました。

 初診でもらったジェイゾロフトを服薬すると、かなりハイになりましたが、めまいやドキドキが消え、薬の効果と、「きっとこれで良くなる」という安心感を得ることができたのです。

 もし最初に処方されたこの抗うつ薬を早めに少しずつ減薬していけば、その後の離脱症状とかにはならなかったと思います。

 ところがこの最初の医師はすぐにクリニックを退職してしまいました。仕方なく別の心療内科を受診したのです。すると次の医師が「君はソラナックスとジェイゾロフトではなくても他の薬でもいいと思うよ」と言い、2つめのクリニックでベンゾジアゼピン系のリボトリール(抗てんかん薬・気分安定薬)やデパス(睡眠薬・抗不安薬)の処方が始まったのです。

 当時、仕事で相談業務を始めていてストレスもあり、診察の時に「ちょっと不眠っぽいことがある」と言ったら、抗うつ薬や睡眠薬が増えていって、それを飲むごとに私はどんどん痩せ細っていきました。

 今思えば、そこの病院は院内処方だったから単純に院内にある薬を使用したかったのでしょう。医師からソラナックスも過呼吸が出れば頓服で飲んでくださいと言われました。

 それからは何を食べても下痢っぽくなったり、全部不調なんです。寝ているのに寝ていないような不安症状があったり、頭痛もひどかったです。

 2年間ほど薬を飲みましたが、体調は一向に良くならず、さまざまな不調がある上に、自分が計算などごく簡単な仕事をしていても不安感が非常に強くなり、「仕事から逃げ出したい」という気持ちになってしまったのです。「仕事は無理だ」と考え、また退職を決めるしかありませんでした。

医師の急な減薬により思いかけず体験した強烈な離脱症状

 退職後、精神科医の主治医に「会社を辞めて気分が落ち着いたんです」と報告したところ、医師は「そうですか。きっと仕事のストレスが減ったので、病気がよくなったんですね」と判断し、今度は、薬を急に減らす処方をしたのです。

 当時、朝昼晩3回細粒で処方されていたリボトリールを、医師は「じゃあ症状が軽減したなら昼間は不要ですね」と減らしました。すると昼の薬をやめただけで、足がむずむずと動き出して止まらなくなりました。

 この恐ろしい状態はアカシジアと呼ばれる離脱症状だったのです。動きたくないのに体がじっとしていられない状態が続きました。減薬によりアカシジアだけでなく、頭痛やめまいなど、あちこちの体調不良が続きました。

 そんなある日、ふっとある考えが私の脳裏をよぎったんです。「うっ!そもそもこの薬を飲むこと自体がどうなんだ?」と。

 この日、私は初めて自分がこれまで服薬してきた薬に関して疑いの目を持ち、パソコンで薬のことを調べ始めたのです。精神病薬の「薬害」や「離脱症状」といったワードがまず目につきました。それらを次々に検索してみると、今まで自分が持っていた情報とは異なる減・断薬の体験談や、精神科の薬の危険性について書かれた情報が一気に目に飛び込んできて大きな衝撃を受けました。

 それらを読み終えた私は「自分は薬を止めないといけない」と思いました。しかし、リボトリールを昼間にやめただけで我が身に起きた激しい離脱症状を考えると、怖くなり「今はとりあえず先生に薬をもらいに行かないとだめだ」と判断しました。そして同時に、私は「自分は薬物中毒患者になってしまっているんだ」と思ったのです。

 約3年間さまざまな薬を飲み続けた私の体重は46kgになっていました。異様に痩せ細り、顔色は悪く、排泄は頻尿になり、常に下痢気味で、何もかもが不調でした。睡眠も寝た気がせず、絶えず不安症状があり、頭痛もありました。

 母親の死から立ち直り、福祉職の資格も手に入れ、自分の人生はこれからだという時だっただけに悔しさがこみ上げてきました。「薬をやめなければ」と決意する一方で、不安もあり、「欲しくはないけれど、薬がないとまた離脱症状が出て、薬がないと生きていけないのが恐ろしい」と焦る日々が続きました。いろいろ考えた結果、薬を止めるということを第一に優先するために、仕事を辞めることにしました。これは一大事だと考えたからです。

減薬を支援してほしいといくら頼んでも服薬を勧める支援者たち

 仕事を辞め減薬に専念しようと決意してから半年間、私は薬の減・断薬指導をしてくれる医師を探し続けました。

 県の精神保健福祉センターや市の精神保健福祉センターなどの電話相談に、減薬の相談で電話をかけると散々話を聞いた挙句に「薬はちゃんと飲みましょうね」と全く役に立たなないアドバイスをされるばかりでした。

 次はダルクに電話してみたところ「K病院といって覚醒剤とかの指導もしてくれる病院があるからそこに電話してみたら」と言われました。早速そこに電話してみましたが「ベンゾジアゼピン系の薬の減薬はやっていない」と断られました。

 私は思いつく限りあらゆる機関に電話をしましたが、当時は減・断薬を指導してくれるクリニックや医師で信頼できる人を見つけることはできませんでした。

「減・断薬をします」とHPに書いてある医療機関にも受診してみましたが、少し減らしてくれるのは最初の一回のみで、減薬を支援するというのは経営上の宣伝文句なのか、実際には形ばかりであることが多いのにも失望しました。

 私は仕方なく、睡眠薬を自分で一気に断薬することにしたのです。断薬したのはデパスとサイレースとベンザリンです。減薬には離脱症状が伴うことをすでに実感していたので「無職で仕事をしていない今のうちに睡眠薬を断薬してしまおう」と考えて、自分で勝手に実行したのです。

 この減薬により、ほぼ一ヶ月眠れない状態が続きましたが、 私は一人で不眠に耐えました。その一方で  私はさらに4、5カ所の病院を転々として医師を探し続けました。

 悩んでいたときに、たまたま地元で減薬をテーマにした増田さやか医師の講演会が開かれるという情報を得て、参加してみることになったのです。

 この講演を聞き、増田医師の減薬に対する考え方や、実際に断薬に成功した人々の存在を、私は始めて知ることができました。

断薬後に医師と元患者として講演会で体験を語る

医師との信頼関係と体験者の情報でひらけた回復への道

 私は増田医師の勤務する病院にさっそく受診し、診察を受けることにしました。増田医師は私の病状だけでなく、これまでの経緯を丁寧に聞いてくれました。

増田医師に出会う前に自己判断でそれまでの薬は断薬したのです。

しかし薬の情報をネットでいろいろ調べるようになった私は、この最後に残ったリボトリール1錠がかなり手強いものに違いないと感じました。リボトリールで以前アカシジアが起きた経験があり、調べると一般的にも離脱症状が激しく減薬が難しいと言われている薬のようでした。

このため私はこの1錠を二年間かけて減薬していくことを決めたのです。

減・断薬経験者の中には二年間でもペースが早いと言う人もいるくらいです。増田医師は 私の考えを尊重し、リボトリールを細粒で処方してくれました。

 私の減薬は、増田医師という減薬に理解のある精神科医のサポートによる部分が大きいのですが、実はもう一人支援者がいました。

 それはFacebookで、精神病薬の減・断薬のグループを作っている当事者の方でした。その当事者の支援者は、私に繰り返し「ゆっくり減薬するよう」メッセージでアドバイスを送ってくれたのです。

 もともと増田先生が提案した速度では半年で止める計画だったのです。しかし先生のもとでリボトリールの減薬をして3ヶ月ぐらい進んだころに私は強烈な離脱症状に襲われました。激しいめまいと、左の肩甲骨の内側が強烈に痛み、インフルエンザ症状と呼ばれる高熱も現れました。

 私はこのひどい離脱症状を先生に訴えました。減薬の知識のない医師なら、「原疾患の再燃」などと判断するかもしれないこの状態を、増田医師は「離脱症状」と判断し、辛抱強く支えてくれました。

 私は「自分の今のこの症状は、減薬のペースが速いから起きていると思う。同じ分量でとどまる「ステイ」をしたいと先生に伝えたのです。

 増田医師は私の感覚を受け入れ、常に尊重しながら減薬を進めてくれました。逆に、私が「ここは次に進みたい」と言えばそれを受け入れ、処方を調整してくれたのです。

 先生は私の感覚を聞き、お互いの意見を交換するために対話しながら、約2年間二人三脚で減薬を進めていきました。

 そして 私は、同時にFacebookでアドバイスをくれる経験者である支援者にも協力を得ていたので、医師・私・経験者のアドバイザーのいわば3人体制を作ることができました。

 毎回の診察日に先生と決めた減薬の量を、経験者にメッセージで相談しました。経験者の返信してくるメッセージでの指示は誰よりも慎重なものでした。

断薬の最後は経験者のアドバイスによる水溶液減薬で慎重に

 このように、私は細粒のリボトリールを2年近くかけてゆっくり減らしていきました。そして最後の三ヶ月間は薬を水に溶かしてから服薬する水溶液減薬(ウォータータイトレーション)という手法を使いさらに慎重に行ったのです。

 私は水溶液減薬のために、ビーカーと針のない注射器、専用の撹拌機を購入しました。水溶液減薬はビーカーに水を入れ錠剤をいれたら撹拌器にかけ均一にまぜて水溶液をつくります。そこからスポイトで減薬したい分の水溶液を吸い上げて捨て、残りの水溶液を飲むという方法です。

 私の具体的なやり方は、写真の100 mℓのビーカーに水を入れ薬を溶かし、そこから1日1mℓずつ注射器で抜き取る方法です。99 mℓ、98 mℓ、97 mℓと減らしていきゆっくりと粘り強い減薬を進めました。

 この一方で  私は、食生活の改善も試みました。ミネラルを摂るための良質な塩や味噌などの調味料を整え、ご飯は玄米食、無農薬の野菜のスムージーなどをとり、薬によって体に溜まった毒をデトックスすることを意識したのです。

 増田先生と出会い、ある程度症状が落ち着き、自分の方向性が見えたことをきっかけに減薬をしながら仕事を再開することにしました。

 そして仕事で得た給料は、そのほとんどを回復のための食べ物や鍼灸と無痛整体、骨盤矯正などにつぎ込もうと決めたのです。

 私は「とにかく早く元気になりたい。そのためならいいものは全部取り入れよう」と考えました。そして2年間かけて、本当に毎日少しずつ薬を減らし、ついに断薬にこぎつけたのです。

 現在断薬から1年3ヶ月が経過していますが、断薬後は、汗をたくさんかくホットヨガを続けています。

 デトックスで毒が出たというのは本当だと思いますね。断薬する一年ぐらい前から寝汗がすごくなって、朝起きると脂汗みたいのがすごくて、薬臭いとまでは言いませんけれども「絶対、これ出てるわ」という感じですごかったんです。

 めまいや左肩甲骨の痛みなど、離脱症状と思われるものは、断薬完了当初は時々感じていました。

 その症状が持続する時間は一回1分間くらいのものでした。最近は不快な症状そのものが起こる頻度がだんだん減ってきていると思います。ただベンゾジアゼピン系の薬により、記憶力の低下や、体の筋肉の柔軟性が減ったことは後遺症的な影響と考えています。

大変な断薬を成し遂げたことでついた自分への信頼と自信

  私はメンタルの不調が起きた原因は、当時の多忙さだけでなく、母親の交通事故死のショックが後から影響してきたこと、そして幼少期の家庭環境の寂しさや、母親がやや干渉しすぎだったこと、もともとの自分の性格が重なって起きたことだったと考えるようになりました。

 私の話をよく聞いてくれる増田医師も「お母さんが亡くなったことの衝撃が関係しているのでしょう」と話します。 

 現在の私は「あって当たり前」と思っていた仕事があること、働けることにも感謝をするようになりました。

 また減薬の後期に私は職場の人に「実は自分は精神病薬を飲んでいて、薬を止めるのに酷い離脱症状で体調が不良ですが出勤して来ています」ということをカミングアウトしたんです。

 するとみなさんが私の事情をよく理解してくれました。これにより職場で無理して健常者を演じなくてもよくなり、そのことで次第に職場にも溶け込めるようになりました。

 断薬して一番嬉しかったのは、やっぱりお酒を普通に飲めることです。大量ではなく微量でいいので、飲んで友達や、大事な人たちと話をしたり、本音を言い合える時間がまた持てるようになったことが一番の喜びです。

 そして毎日少しずつ続ける運動をとても大切な時間と感じています。 自分は転職も多く、コツコツやることが苦手だったけれども、減・断薬を行ったことによって、回復できたことで初めて達成感を感じたんですね。何かあってもあの時、あれだけ辛いことを乗り越え「断薬できたんだから大丈夫」と自分に言い聞かせています。                         


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