性犯罪被害のPTSDから始まった薬物依存症から自力で断薬
診断名:適応障害、自律神経失調症、うつ病、心身症、摂食障害、境界性パーソナリティなど多数
断薬完了:2016年(服薬期間約8年、2008年~2016年)
服薬していた主な薬:デパス(初期の抗不安薬)、コンスタン(抗不安薬)、レンドルミン(睡眠薬)、ベンザリン(睡眠薬)
医師の協力:担当医には減薬していることを言えず、一人で調整し断薬完了
減薬決断の理由:精神薬とアルコールにより体調がどん底になり危機感を感じた。薬とアルコールを大量服用する毎日に自己嫌悪になり、抜け出したい、変えたいと言う思いから断薬を決意
モト子さんは学校5年生の男の子のお母さん。インタビュー当日は軽自動車を運転し、駅まで私を迎えにきてくれました。きれいに手入れされたロングヘア、細い指の爪には薄いピンクのマニュキュア。すらりとして清潔感のある綺麗な女性です。
私が初めてモト子さんに会ったのは2年半前ですが、当時はまだ減薬の途中でもあり、初対面だった私に少し警戒した様子を見せながら自身の体験を話してくれました。
2回目のインタビューではアルコールと睡眠薬の両方を完全に断ったこと などについて少し詳しくお話を聞かせて欲しいとお願いしました。小学3年生だった息子さんは高学年になり、とても元気に成長していること、息子さんをかわいがっていたモト子さんのお父さんが亡くなられたことなどを話してくれました。
モト子さんが性犯罪被害により体調を崩したことは一回目のインタビューで聞いており、最近は性犯罪被害に関する講演活動や新聞への原稿執筆もしているそうです。
また子ども時代から得意だった折り紙のワークショップや、子ども食堂などの活動にも関わっています。モト子さんは以前より明るく、穏やかな口調で語ってくれました。
アトピー性皮膚炎と喘息に苦しむ辛いことの多かった幼少期
私は1歳ころから重度のアトピー性皮膚炎と喘息があり、皮膚は赤くただれ、いつも体のどこかに痒みがある状態でした。痒みと喘息の発作のために“寝ない子ども”で、幼稚園も休みがちだったのです。
このため母は家の掃除、洗濯、布団干など「家の中を清潔にしなくては」といつもピリピリしていました。母は私の看病に加え、年の近い弟と妹の子育てもあり、大変だったと思います。
母は何でもテキパキとこなす人で、私がやる前、何か言う前に、代わりにいろいろなことを言ったりやったりしてしまう人でした。
子どものころから重度の喘息とアトピーのために入退院を繰り返していた私は「私の病気のせいで母に迷惑をかけているのだからいい子でいなきゃ」と思い、いつも親の顔色を見ていたような気がします。
学校も休みがちで、小学校4年生から小学校卒業までは親元を離れ、医療養護施設で過ごしました。医療養護施設というのは病気や障害のある子どもばかりがいる寮のような場所です。
そこは病気であることが当たり前の環境だったため、差別や偏見もなく、私には居心地のいい場所でした。
親元を離れた寂しさはありましたが、10歳にして「自分のことは自分でしなければいけない」という施設生活の体験が、精神的自立に繋がったとも言えます。
アトピーによるいじめ人の視界に入ってはいけない子だと思っていた
小学校卒業とともにこの施設を出て、私は再び地元の公立中学に入学しました。しかし中学のころは、アトピー性皮膚炎がひどかったため、クラスの子がわざと私から机を離したり、無視されるなどいじめに遭い不登校になりました。
中学校では「醜い」とか「妖怪」などと言われていました。このため私は「自分は人の視界に入ってはいけない子なのだ」と感じ、下を向いてしゃべらないようにしていました。
特に女子からのいじめに苦しんだので、高校は女子の少ない学校に進学しました。高校では無事に過ごすことができ、卒業して働き始めたのです…。
性犯罪被害に遭ってしまったことを誰にも打ち明けられず心に封じ込めて
高校を卒業して、工場で仕事を始めてまもない19歳の時、夜道を帰宅中に私は性犯罪被害に遭ってしまいました。自宅に帰る途中で男に脅され、車でさらわれ強姦被害に遭ったのです。
犯人が去り際に言った「警察に言ったら殺す」という言葉に脅え親にもバレないようにし、事件のことは誰にも言えませんでした。次の生理が来るまですごく不安だったのを覚えています。
誰にも被害をうちあけられないまま、実家を出て一人暮らしを始めました。
大人になるにつれて、だんだん母が煩わしく感じられるようになり、実家を出たいと思うようになったのです。あれは遅くきた反抗期だったかもしれません。
実家を出ると、まもなく水商売の世界に入りました。夜の世界に身を置き、昼夜関係なく働く日が続きました。多忙な毎日でしたが刺激のある生活で充実した日々を送っていました。
このころは、まだ性犯罪被害の影響は特に表面化していませんでした。お店で知り合った男性と恋愛関係となり、その人の借金を肩代わりすることになりました。
スタイルがいいことだけが自分の価値。痩せていなければいけない私
実は私は以前から「痩せ」に対するこだわりがあり、市販の下剤を使っていましたが、このころから摂食障害の症状が本格的に出てきたのです。
当時の私は痩せることにこだわり、痩せていなければ自分が存在してはいけないような気がしていたのです。周囲の水商売の華やかな女性たちと比較すると「自分の容姿は劣っている」と感じていたのですね。
そのため痩せていること、スタイルがいいことだけが、自分の唯一の価値のように考えていました。
このころの私は性犯罪被害に遭って1〜2年間がたった状態で、経済的な事情もあり受診はしていませんが、精神的な歪みがじょじょに表面化してきていました。
性犯罪被害に遭った恐怖を麻痺させるための恋愛依存にハマる
当時の私は性犯罪被害者である自身について「自分は汚い。もう汚れてしまった。どうでもいい」と感じていたのです。このころから次第に恋愛依存、性依存といった状態にはまっていきました。
何度も性の経験を重ねることにより、「あの被害は特別なことではなかった。自分にとって何でもないことだった」と考えようとしていました。
性行為の度に事件がフラッシュバックするため、性行為は、私にとって自傷行為のようなものでした。また性行為をする時、相手が一瞬でも自分を求めてくれていると感じること、いわゆる承認欲求を私は必要としていました。
そして被害にあった出来事も「たくさんある行為の中の1つだと思おう」とすることで自分の恐怖を麻痺させようとしたのだと思います。
過去のいじめ体験も重なり、私は自尊感情を無くし、「自分は汚いもの、どういう扱いを受けても仕方のないもの」と考えるようになっていました。
産後うつから始まった日常に頻繁に侵入してくるフラッシュバック
それでも私は必死で元恋人の借金の返済を終え、25歳で水商売をやめることができました。
そのころ新しい出会いがありました。そして結婚して息子が生まれたのです。赤ちゃんだった息子は母親である私を頼ってくれる存在でした。
そのことは、私に自己肯定感を与えてくれました。しかしその一方で出産の後、私の身にはさまざまな症状が現れ始めたのです。
産後のうつっぽい状況には、初めての子育てのストレスの影響などもあったと思います。
そして、日常生活に頻繁に侵入してくる性犯罪被害のフラッシュバックに苦しむようになりました。
体調は悪化し、起きていれば過呼吸、寝たら悪夢にうなされました。ノイローゼ状態になり、安定していた拒食症もひどくなって、最終的には食べ物を受け付けない身体になっていきました。
夫は仕事に忙しく、一人で子育てができなくなり、子どもが幼稚園に入る時期に夫と別居し、実家のある地元に戻ることを決心しました。実家の近くに家を借り、子どもは実家に預けてみてもらうことになりました。
生きるために、うどん一本を2時間かけて食べる努力
そのころの私は体重が35kgを切るか切らないかになり、生死の境を彷徨っていたと思います。「食べなきゃ死ぬんだ、食べなくちゃ」と自分に言い聞かせました。
そして自力で少しずつ食べる訓練をし、スープをスプーン一匙からとり始め、うどん一本を二時間かけて食べるようなことをしました。
そんな努力の結果、私は少しずつ食べられるようになっていったものの、「食べることは生きること」と思うのと同時に、「食べたら太るんだ!」と心のなかで激しい葛藤を続けていました。
19歳の時の性暴力被害の事は、夫には打ち明けたのですが、夫は「もう忘れればいい、何でそんなに考えるの?」と言うだけでした。
夫に悪気はなかったのですが、私の本当の思いや恐怖の感覚を受け止めてもらえないため、不安は強くなるばかりでした。
私は次第に寝たきりの状態になり、自宅で静養する日々が続きました。母親とは和解したわけではなかったですが、孫の世話をよく見てくれ、私は親のありがたみを感じるようになりました。
しかし度重なるフラッシュバックについて私の精神は限界でした。寝ても事件の夢を見る。追いかけられる夢、殺されそうになる夢、悪夢にうなされる日々でした。
寝ても覚めても地獄。カーテンを締め切り、夜なのか昼なのか、起きているのか寝ているのか、自分が生きているのか死んでいるのか、わからないような混乱する日々が続きました。
相性の合う精神科医を探し、常に薬については自分で調べ続けて
子どものころから喘息を抱え病気がちだった私は、多くの病院にかかった経験があり、医師との相性の大切さを実感していました。
ストレスとフラッシュバックに耐えきれずに精神科受診を決断する際にも、多くの病院を受診しては、医師と話をし、信頼できそうな先生をかなり必死で探しました。
ひどい精神科医にはたくさん会いました。ろくに話を聞かず、1回目からすぐ薬を出す医師も少なくはなかったです。
医師に夫との関係に悩んでいることなどを話しても「あなたも悪いんじゃないの?」と言われ泣いて帰ったこともあります。
私は最終的に、人柄が安心できることと、「あまり薬に頼りたくない」という自分の気持ちを理解し、丁寧に説明をしてくれることに信頼を置き、一人の精神科医を選びました。
その後も私はとても用心深く、出された薬については、すぐ自分で効果や副作用などを調べました。
自分なりの考えのもと、睡眠薬、抗不安薬は服薬しましたが、抗精神病薬と抗うつ薬は「恐ろしい薬」と認識したため、処方されたこともありましたが一切口にしませんでした。
酔っ払ったようにふわっとして身体の力が抜けるデパス
そんな私が精神系の薬で初めて飲んだのはデパス(抗不安薬・睡眠薬)です。この薬には強烈な即効性を感じました。
当時の私の状態はちょっとした刺激でパニックになったり、泣いたり、イライラしたりしていたのですが、そんな時デパスを飲むと酔っぱらった時のようなふわっとした感覚があり、身体の力が抜けて楽になったんです。
でもデパスは効きすぎて怖くなり、すぐコンスタ(抗不安薬)に変えてもらいました。飲む期間が長くなるうちに効きが悪いと感じるようになり、アルコールを大量に飲んだり、薬とアルコールを同時に飲むようになっていきました。
薬とアルコールの併用の感覚は個人差があるようですが、私の場合は効果的でした。特に希死念慮が強い時は、アルコールを大量に飲み、同時に薬もたくさん飲みました。
当時は起きていると死にたくなるので、できるだけずっと眠っていたんです。時々目が覚めて「今何時なんだろう?」とぼーっとして…。起きたら苦しくなるのがわかっているので、また薬とお酒を飲んで寝るということを繰り返していました。
27歳の約1年間ほど、私は一人で暗い闇の中をひたすら彷徨っていました。
当事者のブログを読んで感じ始めた疑問「薬では治らないのではないか?」
自分の体も心もどん底までいったとき、私は「自分のメンタルをなんとかしないといけない」と思うようになったのです。
少しずつ自分自身に向き合うために心理学の本や当事者のブログなどを読むようになっていきました。
特にメンタル体験者のブログを読んでいると、「自分のこの状態は心の病であり、薬では治らないのではないか」と考え始め、もともと精神病の薬に疑問も感じていたので、それなら薬を減らしていきたいという気持ちがわいてきたのです。
私は以前からしていたように、医師から処方された薬について自分で調べ続けましたが、さらに自分なりに考え、自分の体調に合わせて、使いたいように調整しながら勝手に減薬をスタートしていきました。
受診した最初のころは、精神科の薬を飲み続ければ効果があり、いずれ根本的に改善するのだろうと考えていのですが、想像に反して、次第に体は薬に慣れていっただけで、効かなくなってきていると感じました。
このため安定剤は不安な時だけに飲むなど、その時の状態に合わせ自分で勝手に増やしたり止めたりしていました。
でも私は先生に自分の服薬の実態を伝えたことはないのです。理由は「先生に嫌われたくない。いい子に見られたい」と思っていたからです。
私の性格の根本に自己肯定感の低さがあり、人に嫌われたくない。見捨てられることを極端に怖がる性格が医師との関係にも影響したと思います。
自己流の減薬中に睡眠薬の断薬でおきた強烈な離脱症状に耐えて
そんな風に自己流の飲み方を続けていく中、ある時、作用時間が中・長期型の睡眠薬ベンザリンを一気にやめてみたところ、強烈な離脱症状にみまわれました。頭が覚醒しっぱなしになる状態を経験したのです。
離脱症状はその後しばらくしておさまったものの、あまりにもしんどい経験だったので短期型のもう一つの睡眠薬レンドルミンの減薬をすぐにスタートする気にはなれませんでした。
その時点では子どもと一緒に暮らす生活に戻っていたため、2回目の減薬は子どもの学校が夏休みに入るのを待ち、そのタイミングで実行し、なんとか短期型の睡眠薬も断薬することができたのです。
3年かけてゆっくり行った減薬。そして最後の一錠を手放す難しさ
薬を以前からたくさん飲んでいた私は、3年近い時間をかけて徐々に減薬を行ってきました。しかし最後に残った睡眠薬であるコンスタン1錠になったとき、この薬が果たしてどの程度効いているのかは分からない状態だったのです。
そしてこの最後の一錠の断薬は思ったより容易ではありませんでした。私は翌日のスケジュールを慎重に予測しながら、葛藤の中で薬を少しずつ手放していきました。
前日の夜に翌日がどのような予定であるかを考えて、量を調整するなど慎重に減薬を進めていったのです。
減薬を進めていく過程で、やめたいと思っているのに「薬を飲んでしまう自分は弱くてダメな人間」という私自身の思い込みが、「薬を飲んでしまっても自分は別にダメなわけじゃない」に次第に変化していったことを覚えています。
でも気持ちとしては「もういらない」と思っているのに、身体は「薬が欲しい」とサインを出してくるのです。
コンスタンを3日間抜いたとき、頭がふわふわして、自分が別世界にいるような感覚、自分が自分でないような離人感を味わいました。
その日は車の運転をしていたのですが、運転しながら自分の感覚が不確かで本当に怖かった。あれも離脱症状の一つだったのだと思います。
心は飲みたくない。でも身体は薬が欲しいのです。身体が、薬が入ってくることに慣れきってしまっている状態です。
この状態から脱出するためには、強い精神力が必要でしたが、ついに私は断薬を完了することができました
減薬には寄り添ってくれる支援者や理解者が必要
薬をほぼ断薬したあとでも、私は「薬を飲む」という行為から得られる安心感を得たいと思い、錠剤を飲みたくてサプリメントなどを飲むことをしばらく続けていました。
このように私は医師にも言えず、誰も相談できる人がいない中で、一人で修行僧のような減薬を実行し、離脱症状にも耐えました。
でも私は私のように一人で実行するのはお勧めしません。依存症自体もそうですが、減・断薬も心が折れてしまいそうになるほど大変なことなのです。
一人で実行するより自助グループや寄り添える支援者や理解者がいる環境があった方がいいと思います。
そして、このように結局、私は自力で断薬を完了しましたが、それをとうとう最後まで医師には言うことはできませんでした。
アルコールを最後に断って全ての物質依存からの脱却!
私は精神科の薬をすべて断薬したあと、最後にアルコールを断ってすべての物質依存から脱け出しました。
実はアルコールを飲んでいる時に、酔って子どもを叩いたりしたことがあったのです。
気が立って暴走が止められない状態でした。子どもにひどい事をしている自分が本当に許せなくて、「このままではダメになる」と断酒を決意しました。
現在の私は完全に断酒し、どうしても飲みたいときはノンアルコールビールを飲むと決めています。
今では周りが飲んでいても「私は飲みません」といえます。そしてそんな時は「私はアル中になったことがあるから」とオープンに話せるようになりました。
痩せることへのこだわりを手放し自分の身体イメージの見直し
アルコールを断酒するころ、私は一人の栄養カウンセラーと出会いました。その出会いが食生活だけでなく長年の私の「痩せることへのこだわり」にも変化をもたらしました。
「拒食症に戻らない体作りをしましょう」というカウンセラーのアドバイスによって食事管理を学び、私は自分の思考の歪みを改善していったのです。
食生活について「自分が先々どうなっていたいのか。やせてガリガリではなく健康的に引き締まった体というイメージを持ち、それにあった食生活にしましょう」とカウンセラーさんが教えてくれたことを実行してみることにしました。
すると食べずに痩せるのではなく、太りにくい体をつくるための食事ができるようになり、食べることへの抵抗がなくなったのです。
断酒したことで体のだるさが消え、肌が綺麗になったのもとても嬉しいことです。
でも、私は今もスレンダーなスタイルにはかなりこだわっているんです。ただ以前のように体重に一喜一憂し、食べないことで痩せようとするのではなく、正しい知識で食べてきれいなスタイルを維持しようと考えるようになりました。
摂食障害のグループやメンタルの病気の経験者や当事者の人の中に入ると「自分だけが辛い」という感覚が薄れ、「あの人も頑張っているんだ」と勇気をもらえることもあります。
安心して話せる場所、気持ちを共有できる場所があることは、本当に大切なことだと思います。
減薬のプロセスで私は『ブログ療法』の存在を知りました。これは自分の経験をブログに書くという作業です。
過去の出来事、一つひとつを選び記事を書いていくんです。細かい所まで思い出して書き出し、次に文章を整理し組み立てていく方法です。
人に見せるためにわかりやすく文章を整理していくことで、自分の思考も整理されるんですね。同じ体験を持つ人からのコメントに励まされたりしました。
私はブログ療法で過去とトコトン向き合ったことで過去との決別ができ、フラッシュバックで苦しむことも減ったと感じています。
息子が私にくれた「愛」という自己肯定感
減薬のことを考える時、私は息子が私に愛という自己肯定感を「入れてくれた」のだと感じています。息子はどんなダメな私でも私を純粋に必要としてくれて、好きでいてくれました。
小さいころって特に「ママ、ママ」という感じなので、自分の辛い時期と重なったけれど、息子はいつも私の心に愛情を入れてくれました。
私の中の「ここにいていいんだ。生きていていいんだ」という感覚は息子の存在がもたらしたものです。
赤ちゃんだった息子が自分を必要としてくれた「生きていていい」という感覚を大事に、薬とアルコールをやめ、自分自身に向き合ったころから、私の人生はシンプルになっていきました。
自分自身が事件やその後の病気を乗り越えた経験が、「誰かの役に立った」と感じられたときに、私は自然と自分を好きになっていき、それが自信にもつながっていったと思います。
明日のことを悩まず、今現在を生きられるようになった
私は小さいころから喘息がひどかったので、自分は30歳位までしか生きられないんじゃないかと思っていたんです。その年齢を超えたときに、いろんな問題が解決していきました。旦那さんとの問題も借金生活も全部抜けたのが2年くらい前です。
無理せず気張らずに、もう余生みたいなものだから、そんなにガツガツしないで生きていけたらいいなと思ったのです。そこから何かいろんなことが受け入れられるような感じになり、性格も変わってきました。
未来と過去に固執して生きるのをやめて、「今を生きる」ようになると「明日どうしよう」と考えて寝られないことがなくなりました。
生きるのがとても楽になったのです。別に何が起こっても大丈夫と思えるようになりましたね。
私は心の問題は薬で根本的に治せないものだと思っています。精神系の薬は一般の薬とは違います。脳を麻痺させるものです。薬を全否定するわけではありませんが、薬を飲まなくても適切なサポートがあれば立ち直れる人もたくさんいるように思います。
病院は治療をしてくれる場所ですが、心の問題は薬ではなおらない。それが、私が何年もかけてたどり着いた答えです。
今、自分のことを大切に思えるようになりました。子育ても大変なこともまだまだ多いけど、毎日が楽しいです。もう私は大丈夫です。
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