薬でごまかしていた怒りの感情を断薬で手放す

さとぽん 漫画家 アルバイト 

診断名: うつ病 適応障害 境界性人格障害 など

初診:2004年(20歳)精神科クリニック

断薬完了:2013年

減薬にかかった時間:9ヶ月半(医師のもとで4ヶ月半)

これまでに服薬した薬:ベゲタミンA (抗精神病薬) デパス(睡眠薬) リスパダール(抗精神病薬) デパケンR(抗てんかん薬) セパゾン(抗不安薬) レキソタン(抗不安薬) ミオナール(筋弛緩薬) テトラミド(抗うつ薬) ユーロジン(睡眠薬)エビリファイ(抗精神病薬)サインバルタ(抗うつ薬) ガモファー(胃薬) レバミピド(胃薬)

協力した医師: 内海聡医師

減薬決断の理由:破産 措置入院 元カレからの勧め

 現在、さとぽんは、実家を出て婚約者と同棲中。アルバイトの仕事と漫画制作などアーチスト活動とのバランスをとる工夫を続けながら、自立したマイペースな日常を維持しています。

genn さとぽんは、自分自身の回復ストーリーを漫画で書いて発表するなど、活動的で伸びやかな表現力をもつ女性。減薬に関する「お薬当事者研究」というワークショップを定期的に行っていますが、さとぽんはこのワークショップに何回か参加し、得意の漫画でワークショップの板書を手伝うなどしてくれています。

このインタビューは、以前断片的に聞いたことのあるさとぽんのストーリーの詳細を改めてインタビューしたものです。インタビューの当日、さとぽんはいつもどおり美大生の雰囲気を漂わせるガーリッシュな服装で、手には画材をもって約束の場所に現れました。さとぽんは、タレントの渡辺直美みたいに太っていますが、そこが彼女の個性として光り、おしゃれでチャーミングです。自分の考えをきちんと自分の言葉で論理的に話す様子もとても魅力的。深刻な内容にもかかわらず楽しいインタビューとなりました。

子ども時代から辛かった居酒屋の手伝い

 私の家は、父親が昼は食堂、夜は居酒屋を経営しています。母親は小さなスーパーマーケットで働いて共働きをしていました。

 子どものころは、おばあちゃんと両親と4人兄弟が一緒に住んでいました。私は末っ子で、長女の姉の下に双子の姉と兄がいます。私の家では、幼いころから子供達も居酒屋の手伝いをするように言われていました。

親が共働きのため、子どもたちはほっておかれれいましたね。幼かった私を見てくれていたのはおばあちゃんでした。姉達はよく二人で遊んでいて、年が離れた私は一人遊びしていることが多かったですね。

 両親は、おもちゃやお金は渡してくれましたが、学校での出来事などを話してもあまり話を聞いてもらえなかったですね。

「居酒屋の仕事を手伝えばお金をあげる」とお小遣いは子どもにしては多い2000円をもらっていました。でも子どものころの私にとって、居酒屋での酒席の片付けは何よりの苦痛でした。お客さんの食べ残し、タバコ、酒がこぼれたテーブル、嘔吐物の処理などを任されることは本当につらく嫌なことでした。

 姉二人は、率先して手伝いをしていましたが、私と兄はしかたなく嫌々という感じでした。他人の食べ残しを触ったりすることは、自己犠牲的じゃないですか。人の汚いところを扱うものは今も嫌なんです。

勉強についていけない不安から始まった過食

 自宅の目の前が小学校だったので、私はそこに通っていましたが、親が忙しかったため、あまり私の学校の用意などは手伝ってくれませんでしたね。

 私は算数が苦手で、小学校低学年で分数の計算などがすでによくわからなくなっていました。でも自宅でも誰も教えてくれないので、わからないところはそのまま放置してきた感じです。

 当時の私は相当寂しかったのだと思います。おばあちゃんだけでは足りなかったですね。姉二人については「命令を断ったら、後で姉が何かすごい怖いことを言ってくるのではないか」と私はいつも怯えていました。

 実際に姉たちが私に布団をかぶせて窒息させようとしてきたことがあるんです。子どもの悪ふざけだったとは思いますが、私は、すごい怖くて死ぬかと思いました。私はそれ以来未だに布団に潜って寝ることができません。

 私はいつも姉たちの機嫌を損ねさせないよう自分が我慢するしかないと思って生きてきました。姉を怒らせないようにしようとか、周りの空気を読もうとか、そんな癖がついたのです。人と一緒にいると疲れるので、一人でぶらぶらしているのが好きになったのかもしれません。

 小学校3年生のころになると勉強についていけなくなってしまいました。そしてそのストレスと不安を、食べることで埋め合わせるようになったのです。

 勉強がわからないのは自分のせいだと思い込んでいました。家の中に宿題を見てくれたり勉強を教えてくれる人はいなかったため、算数は今も小学校2年生レベルしかわからないんです。

 また小学3年生あたりから太り始めたため、男子はなにかと私の体型のことをからかってきました。

 そんなストレスの多い毎日でしたが、このころ私は自分が絵が好きで得意だということに気づいたんです。絵は子どものころから広告の裏などにずっと描いていました。自分の思いを絵にできるのは、当時話すことが苦手だった私にとっては楽しい、自分が自分でいられる大切な時間でした。

 子どものころの私は口数が少なく独り事ばっかり言っていました。親に話しかけても面倒くさいらしく、「あっちに行け」とか言われていました。父親は短気ですぐ怒り出し、母親は自分の喋りたいことしか喋らない人で、気に入らない話題になるといっさい聞く耳を持たない感じでした。

いじめから始まった気持の落ち込み状態

 中学に入ると、私は貸したものを返してもらえないなどのいじめにあいました。でも美術部に所属し、描きたい時に絵を描く自由な部活の雰囲気を楽しんでいたんです。勉強は算数の時点でわからなくなっているため、数学は全く手がつけられない感じでした。しかしその一方で視覚情報や記憶が優れているようで、歴史は得意で歴史の場面を頭に浮べては、どんどん暗記ができたんです。地図も地形を想像して覚えることが好きでしたね。

 中学を卒業し女子高の家政科に進学した私は、再び美術部に入ることにしました。でもこの高校はレベルが低く荒れた学校でした。このため私はひどいいじめを受けました。学校の4階の校舎から携帯電話を投げ捨てられたこともありますよ。

 ひどいいじめがいろいろありましたが、担任の先生に訴えても何かしてくれるわけでもなく、高校時代の私は相当なうつ状態になっていたと思います。本当に「線路に落ちちゃおうかなー」と思ったこともあります。

 でも高校3年になったときに、美術の教師から女子美術大学の推薦枠を勧められたんです。私はいじめにあったことや、家庭での寂しさや悔しさをバネにして、美大受験に向かうことに決めたのです。

 子どものころから常に我慢してきた当時の私の心には、きっとくすぶる怒りがあったんですね。「なんで私がこんな目にあわなければいけないの?」と。私が我慢すれば、納得はいかないけど、吐き出せる場所もないし自分がそれを出したところでさらに酷い事をされるのかもしれないと、怯えながらも怒りを溜め込んでいたと思います。

ブラックバイトと心の風邪キャンペーン

 無事に女子美に入学した私は、立体製作と漫画を描くことを楽しんでいました。オーケストラにも所属し、初めてコントラバスの演奏にもチャレンジしたのです。でも子どものころからピアノなど楽器を習ったことがなかったので、音楽が得意な周囲の人々のレベルについていくのは大変でした。

 その悩みを憧れの先輩に打ち明けると「自分を責める必要はない。そのままのあなたでいいよ」と言われたんです。その瞬間、これまでの辛さや怒りが報われたようで、19歳の私は涙をボロボロ流して泣いてしまったことを今でも覚えています。

 でもこの楽しい大学生活を続けるには、お金が必要でした。一人暮らしの私は居酒屋のバイトにも励むことになったのです。幼いころ一番苦手だった仕事を選んでしまったわけですが、バイトで夜遅くまで働くうちに、だんだん昼夜が逆転し始めたんです。眠れないことが心配になった私は、駅前の心療内科を受診してみることにしました。今思うと「不眠は精神科へ」というイメージに気軽に乗っての安易な受診でした。

 そして初診の私には、トレドミン(抗うつ薬)ワイパックス(抗不安薬)、マイスリー(睡眠薬)の3点セットがなぜか一緒に処方されたのです。今思うと「うつは心の風邪ですキャンペーン」にまんまと引っかかってしまった感じでした。 

 精神科医は「薬を飲めば気持ちが楽になりますよ」と言いましたが、私の気分はどんどん内向きになるばかりでした。精神科医の言うことと、自分の状態がまったく合わないわけですが、私は「薬が効かないのは自分が悪いのだ」と考えていました。

 それでも一所懸命薬を飲んでいればだんだん効いてくるくだろうと思っていたんです。でも調子は悪くなるばかりだし、何を話しても医師は「うーんそうですかね」と言い薬を増やすだけでした。診察の場でコントラバスの練習の難しさについて話すと「あなたは楽器やるの向いてないんじゃないんですか」とまでいう医師の言葉にも傷つきました。

 そんな私にさらに追い討ちをかけたのが、私を慰め応援してくれた憧れのオーケストラの先輩がガンになってしまったことです。そしてその後しばらくすると先輩は亡くなってしまったのです。

 先輩がガンであることを知り、お見舞いに行きたいと私は希望しました。しかし周囲の人は入院先などを教えてくれることはなかったです。それは、当時かなり薬漬けになっていた私が余命宣告をされている人のお見舞いに行き、感情をぶつけるかもしれないことを周囲は危惧したのかもしれませんが、真相は今もわかりません。

 私はどんどん孤立し、薬漬けもひどくなっていきました。自責の念と自殺願望とそれに加えて暴力的な衝動も出るようになっていったのです。

薬でぼやかしてもどこかで爆発した負の感情

 私は、薬で救われるとかはありませんでした。ただ薬を飲むと自分の感情を見ないで済むから楽だったんです。でもその分、後々どこかで絶対に感情が爆発はしていましたね。溜まっていました。

 当時の私は、恋愛も三角関係に巻き込まれていました。そこにも薬の影響はありました。普通だったら止められるはずの感情が爆発し、自分が男性を好きになり、その人に恋人がいると知るとその女性に対しドロドロした感情をメールで書いたりしました。このため「ストーカーとして私を訴える」とまで言われました。

 当時は感情を抑えられなくなっちゃって、「何で自分ばかりこんなふうに我慢して、嫌な思いをしなきゃいけないんだ」と思うとまるで子どもみたいに我慢できず爆発しちゃうんです。

 それを制御しようとすると、針とかで自分の腕を傷つけちゃっていました。とりあえず血を見ていれば落ち着くんです。怒りの感情を自分にぶつけることで、周りが丸く収まっていればいいやと。自分は常に袋小路にいて、薬が止められなくなっちゃっているし、自分が嫌でしょうがなくて、過食して太りました。 

 体重が105キロまで増え「あーもう自分は本当に生きてる価値ない」とほぼ毎日思っていました。「死んじゃえばいいのに」と思っていたけど、死なないんですよね。何やっても。当時薬を飲むと、ものを盗んだりもしました。といっても自宅でだけですが、母親の財布からお金を取ったりしました。今だったらそれはしてはいけないし、「家庭内でもそんなことをすれば面倒なことになる」ってわかっているはずなのに、止められなくなってしまって。当時は1日24錠もの薬を飲んでいました。それから性欲が非常に強くなっていました。風俗で働いたりとか、援助交際でお金を稼ぐようなこともしていました。

自傷行為だけが自分の怒りを鎮める唯一の方法

 私の感じたままの行動を外に出すと周囲は混乱し、その結果面倒くさいことが起きるわけです。「それくらいだったら自分だけが傷ついてればいい」と考えていました。怒りの感情を収めるには、自傷行為で自分を傷つけるしか方法がなかったですね。

 それでも私は、美大もオーケストラも卒業まで頑張り続けたんです。これを辞めたら「もう自分は生きている資格がない」と思っていましたから。 

 卒業間近の私はかなりの多剤処方になっており、リスパダール(抗精神病薬)も飲んでいました。最後のホールコンサートのときには、薬の影響か体が硬直してしまい、遠方の会場までタクシーに乗って向かい、本番が始まるまでずっと寝ていたことを覚えています。

 当時の大学では精神科の薬を飲むことへの抵抗や偏見はあまりなく、周りの人たちも私が薬を飲んでいることを知っていました。「あの子はクスリを多く飲んでるからしょうがない。好きな先輩が死んじゃったんだって」みたいな捉え方をされていたのだと思います。

 そしてなんとか卒業はしたものの就活ができなかった私はしかたなく、街にある精神科クリニックのデイケアに通い始めたのです。

薬漬けの私から去っていく友達

 クリニックではどんどん薬の量が増え、副作用もひどくなっていきました。大学4年の終わりあたりから、地元茨城に戻ったため、筑波大の附属病院に転院したのですが、そこではデパスが1日に4錠も処方されました。リスパダールも、現在は販売中止になっているベゲタミンA(抗精神病薬)も処方されたのです

 私は大学卒業後も定職につかないまま25歳になりました。いわゆる薬漬けの私から、友達はどんどん離れて行きました。小学校時代から仲良くしていた一人の友人とも連絡が取れなくなり、あまりにショックで余っていたベゲタミンA20錠と他の精神病薬計150錠近くを一気に自宅で服薬したんです。私は記憶を無くし、気がついたらICUに入っていましたが命はとりとめました。

 親からは「働け」と言われるわけですが、体は仕事できるような状態ではなく「なんでお前は働けないんだ」とか「なぜそんなにお金を使うんだ」とか「早くしっかりしろ」と言われ続けました。私はこの無理解に、家族への殺意さえ感じました。

 私の生活はますます極端になり、ハイの時は外に出かけてカードで買い物をバンバン、鬱の時はずっと家の中にいて家庭内暴力をしたりするようになっていました。そしてICUで助けられた後には自己破産となりました。借金は100万円。買ったのは、映画『下妻物語』に出てくるロリータ服です。ひらひらの、パステルカラーのお姫様のドレスのような洋服、帽子やパラゾル、それはみな私が「子どものころに欲しかったきれいなものたち」だったんですね。

ロリータ服を着て大型トレーラーに突進

 気持ちが不安定だった2010年の年の瀬のある日、自暴自棄になった私は、「国道で車に轢かれて死のう」と思いたったんです。その時はストラテラカプセル(ADHD治療薬)を飲んでいました。国道で車を見ているうちに怒りが湧いてきて、私は走ってきた大型トレーラーに傘を投げつけたんです。怒ったトレーラーの運転手が車を止めて降りてきました。だけどその瞬間に私の怒りのスイッチがピッと入ったんです。私は髪の毛をピンクに染めフワフワのドレスを来て、怒り狂った形相で運転手を睨みつけました。あのクスリを飲んだ瞬間、すごく暴力的なハードボイルドな感じになり運転手もたじろぐほどでした。

結局私は警察につかまり書類送検となったんですね。私の両親はどんどん暴力的になっていく娘に呆然とするばかりのようでした。国道で暴れたあとも、激しい感情がひどくなり、結局、翌年元旦に入院となったのですが医療費が払えないことを理由になぜか運良く4日間で退院できたのです。

薬について疑問を感じ始める出来事

 措置入院を終えた私は、地元のある施設を紹介されました。それは断薬に関するたくさんの出版物などでも有名な精神科医の内海聡医師が運営している牛久の地域にある施設でした。 

 私がそこを紹介されたのは、その施設に私に向いていそうな手工芸や工作というプログラムがあったことが理由でした。特に内海医師のことも当時の私は知らなかったのです。

 でも初回に私はそこのカウンセラーから衝撃の指摘を受けました。

「これ医原病です。あなたは薬でこんなんなっちゃったんですよ」と。 

 私はこの時初めて「薬害」という言葉を聞きました。これまで調子がおかしくなってもそれは「全部自分が悪い」と「自分がダメなやつで、自分の病気」だと思っていました。

 ところが突然「あなた自身が悪いんじゃなくてこれは薬のせいだ」と説明されたのです。その時は物事の全体が繋がりそうで繋がらなかったですね。

 そして施設には私にとってもう一つ素敵な出来事があったのです。施設に通う私の好みのタイプの男性から「お前、断薬したらやせてきれいになるで!」と言われたんです。

 私はこのころから、精神病薬に関する講演会などに関心を持つようになりました。そして、なんとなく「精神の薬はヤバイのかもしれない」と考えはじめるようになったのです。

 このため、自分の主治医にあれを削ってください、これは削ってくださいと処方について、注文をするようになりました。そうしていると、ある時点で医師から「あなたの場合、もうこれ以上減らせません」と断られました。私は仕方なくその病院をやめて、施設に時々来ている内海先生に診てもらうことを決めたのです。

自分で服薬の管理を始めたら頭が冴え始めた

 初診から内海医師の態度は厳しく言葉もとにかく辛辣でした。何か質問すると「君、全然勉強してないからダメだね。そんなことぐらい自分で調べなよ」と冷たく言い放つのです。

 当時の私はネット環境もなく、スマホも持っていなかったのです。でもあまりに頭ごなしに罵倒されるので、悔しくなりました。

 このため私は、図書館の無料の貸し出しパソコンに行って薬のことを調べまくることになりました。そして自分の飲んでいた薬の特性をひとつずつ把握していったのです。

 内海医師から指導された減らし方はシンプルで、薬を4等分にし、4分の1ずつ減らす方法でした。

 服薬していた全部の薬に関して4等分にして、4分の1ずつ削っていく方法を実行しました。

私が説明し、医師はそれを聞く側だと気づく 

 私は若く、体力があったので案外スピードは早かったですね。減薬に耐えられそうな体調の時はそのまま減らし、辛い時には減らすことを休むという方法で減薬を進めていきました。

 そして内海医師に対しては、私が自分で記録ノートを作り経過観察した内容を見せることにしたのです。

 最初は怒ってばかりいた内海医師も、私が考えたノートで経過観察するという独自の方法に感心した様子でした。そして私は自分で自分の体と薬の管理を始めたときから、なぜか急に頭が冴えはじめたのです。

 それまでの私は、医者が何も説明してくれないことをずっと怒っていました。でもこのとき、実は説明をするのは私の方で、医師はそれを聞く側だと気づいたのです。

 とは言っても内海医師が何をしてくれるわけでもなかったですが、「だったら自分で自由にやっていいんだ」と私は急に全てがひっくり返ったことに気づいたのです。「薬を飲むのは私で、薬のことは医師から説明されるものではないんだ」と。その瞬間これまでの全ての発想が逆転しましたね。私も驚いてるんですけど。

早いペースで進んだ減薬と離脱症状

 私は19歳から30歳まで11年9ヶ月間、精神の薬を飲みました。内海医師のところを受診する前も自主的に5ヶ月間減薬をし、内海医師のもとで4ヶ月半で断薬を完了しました。私の離脱症状はかなりすごかったです。

 特に手の震えがひどかった。手の震えは、日常生活で困るというわけではないですが、志村けんのコントにでてくるおばちゃんみたいな状態になっていたので、よく施設で、冗談で真似していました。

 またいまだに口のなかは痺れがあり、まるで常にサイダーを飲んでいるみたいな感じです。このため滑舌もわるくなりました。 

 感情のコントロールも一時的にできなくなり、イライラし怒りやすくなり、物を壊したりもしました。

 断薬により睡眠障害も起きました。でも寝ない時は気にせず起きていることにして、いつの間にか眠るような毎日が続きました。 

 眠れない時は漫画を書いたり深夜アニメを見て過ごしたり、夜帰宅する兄と話をして過ごしたので焦ることはありませんでした。睡眠障害は半年ほどで治りました。

 それから減薬を始めてから、まず聴覚過敏が起き、よく耳栓をつけていました。また外耳炎になり耳から膿が出るという症状は当時だけでなく今もあります。  

 またイライラや攻撃性が一時期ひどくなり、体はだるく、筋肉痛が起こりやすくなりました。

 完全に断薬が終わると今度はハイテンションになりましたが、体重は98キロから70キロに減りました。 

 ただ時々感情のコントロールができなくなることがあり、例えば駐輪場でマナーが悪い自転車を怒って蹴り倒したりしたこともあります。

 断薬後1年経ったころは、身体の痛みや疲れやすさは酷くなりましたが、感情の爆発はなくなりました。断薬2年目には手の皮がどんどんむけてあかぎれみたいになりました。

 このころになると感情面のコントロールはだいぶうまくなり、人とのコミュニケーションや距離の取り方が、むしろ服薬前よりうまくなったのではないかと思います。

薬をやめた今も残る生きづらさとともに

 現在断薬から5年が経とうとしていますが、身体の疲れやすさや、だるさは依然としてあり、風邪を引いたりすると治りにくいです。

 それから自分のこと以上に、社会の仕組みやルールなどに疑問を感じることは多いですね。会社の規則などに疑問を感じたときなど、それを忖度することは苦手ですね。例えば正社員として働くことに価値があるとかには賛成できず、私は自分らしい働きかたをしたいと考えています

 薬の作用により、本来自分の持ってる制御能力が失われるという苦しい体験をしたことで、私自身はどん底まで落ちたと感じています。薬を11年間も飲んだことについてはやはり時間がもったいなかったです。でもどん底に落ちたことは良かったと思うんです。

 私は子どものころから、自分がずっと言葉を閉じ込めてきたと思っています。そして薬をやめ始めたころから、家族のいろんな姿が見えるようになってきました。

 不器用な両親が幼い私に居酒屋の手伝いをさせたり、子どもの話に耳を貸さずにきたことは、やはりひどいと思いますが、きっと両親はそれしかできなかったのでしょう。許すつもりはないんだけど、気の毒な人たちだなあと思うようになりました。

自分の人生、信じる価値観で生きる

 内海聡医師について世間では賛否両論があるようです。でも私は内海先生と出会えてよかった。良い意味で私の「やる気スイッチ」をオンにしてくれたからです。

 患者が「悔しい!」と思う気持ちを煽ってくれたと思います。私の場合は良い方向にパワーが出たんですね。私はそれまでの自分がポンコツだったと認めることができたから。あのやり方は、「何くそ!」ってやれる人が回復しやすいんですね。

 いろんな先生がいるので患者さんのタイプによって相性があると思います。

さとぽん は、自分の体験を漫画で表現する活動を行ない、2冊の冊子を発行している。

  • 毒薬サバイバー 1、2巻 さとぽん 作画

2019年厚生労働省前で行われた薬害根絶デー。薬害を訴える活動にも参加している

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